まさにつぶやき、です。

欲張りな性格のためか、私は同時並行的にいくつかの本を読み進めています。

だから机の上はいつも本が散乱して、夫に「ちょっと片づけたら?」と叱られることもしばしば。

目の届く範囲にないと読むことを忘れて、次の目新しい本に手が伸びてしまうので

やらないといけないことは視界にないとダメな性格なんです。


これ、お料理も同じで、何を作ろうかと思ってピンときたら使う食材をテーブルに並べていないと、「あれ?次に何作ろうとしてたっけ???」と頭が空白になります。

これって、短期記憶が低下したのか。

能動的にちゃっちゃと物事を片付けて熟考がないからなのか。


と、前置きが長くなりましたが、最近机の上に山積みになっている本は、

・大往生したけりゃ医療とかかわるな

・認知症の母にキッスされ

・ホリスティック医学私論

・健康から生活をまもる

・あなたの死、そして、わたしの死

・女医問題ぶった斬り

などなど。


昔から看取りや安楽死、尊厳死、終末期の看護などには関心が高いのですが

歳を重ねるにつれ、また自分の親が高齢になるにつれ、生き死にを考えるようになりました。


死を間際に「できる限りのことをしてください」と医療者に言っていいのか??

これについて、新見正則Drは次のように即答しています。

「一番身近で介護していた家族はその人のタイミングで治療の終了を希望する。けれど遠くに住んでてめったに関わらなかった家族ほど、不必要な延命を求める。医師はお願いされると断ることができないので、結果過剰医療が生まれるんですよ」

「(Drに)先生だったら、今の時点でどんな治療をしたらよいと考えられますか?と医師に尋ねるのが一番いいと僕は思います」

「どうせ、医師から様々な治療方法に関する説明を受けたって、一般市民がとうてい理解できるはずもないですしね。」


確かにごもっとも。

日本人が一番苦手&タブーとされている「死に方」についてひとりひとりが羅針盤を持ってないと、不必要な延命措置が取られる可能性も否定できない。


さて、その新見Drのブログの記事から転載↓↓↓

このお医者さんはテレビでもおなじみのようですが、イグノーベル賞を受賞したかたですね、ネズミにある特定の音楽を聞かせて心臓移植をしたら…驚きの結果に!という、音楽と免疫の関係を示唆する研究。

話を元に戻しますと、新見Drは5年前に認知症のお母さまを看取られ、その実体験を通して認知症のプロだと言われていました。Drの認知症にならない(進行を遅らせる)ためのノウハウもとても参考になります。

これについても非常に興味深い内容なので機会があればブログでごご紹介したいなと思います。



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母を送っても解決しない問題


 一方で認知症に関する答えは母を送った今でも解決しない問題です。メディアの表面的な発言の多くは本当に介護をしている人には当てはまらないことが多々あります。高齢者がどんどんと増え、そして医療が進歩してお迎えの時期がどんとんと延びる一方で、認知症の治療はボツボツとしか進歩していません。母を介護していて思ったことは、認知症の根本的な治療が開発されるまでは、高齢者に対する治療が進歩することは不幸の増幅にも思えました。「お迎えをお迎えとして受け入れること」も大切な選択と思っています。母は自宅で亡くなりました。最期まで点滴も胃瘻いろうもしませんでした。食べられなくなった時がお迎えの時と家族が決めていたからです。最期は30キロもありませんでした。点滴も胃瘻もしなかったので乾いて枯れるように亡くなりました。まったく汚くも臭くもありませんでした。母が亡くなってドライアイスで冷やして一晩部屋で過ごしました。その母に寄り添って娘は一晩中同じ布団で寝ていました。「冷たいおばあちゃんも気持ちいい」と言っていました。その母の初盆が終わりました。


 人それぞれが、少しでも幸せになれますように。


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枯れるように亡くなる。

これはヨーロッパでは当たり前の看取りのようですが、日本では息を引き取る直前までスパゲッティ症候群(さまざまなチューブが身体に取り付けられている)ので、遺体が水膨れして重たいそうです。

これは映画「おくりびと」の原作者の青木新門さんが「納棺夫日記」に書き記しています。


みんな必ず老いに向かっていますし、この先、自分や家族の死に向き合わねばならない日が来ます。

身近な「死」、でも日頃考える機会はなかなかありません。


書籍を読みながら、疑似体験を重ね少しずつ考えてみたり、慌ただしさに追われ、、、の日々です。



・・・と、支離滅裂な記事を読んでくださってありがとうございます。


川遊びを楽しんだ夏休みも今日で終わり・・・




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